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今回は、30過ぎて 職業音楽家になったところからです

いろんな人に反対されました
もちろん実家の親には言えませんでした
食っていける見込みはゼロでした

そのときの仕事は、レッスンと
たまに入ってくる営業だけでした

その時に「ウッドベースが弾けたらねぇ〜」と言われたのがきっかけで
ウッドベースを弾き始めます

もともと楽器自体は持ってました
サラリーマン時代にはじめてのボーナスで買ってました



弾ける訳も無く
そのままの状態で押し入れの肥やしになってました

弾けたら仕事がある!!!と思った僕は
一念発起してケースから取り出し弾いてみましたが
やはり弾けません
あれでも、なんとかして現場まで持っていって使っても見ましたが
音程がとれなさすぎ、音ならなさすぎてぼろかす言われて帰ってました(泣)


そのままではしょうがないので
もう必死に練習しました
なんせ、仕事は無いですから時間だけは信じられんくらいにありました
それこそ学生のときよりあったと思います
とにかくスケール練習をずっとずっとやってました

そうしてると、知り合いからホテルのラウンジの仕事を紹介されました
なんとかかんとかちょこっと音が鳴るようになってた僕は飛びつきました

なんとかオーディションをくぐり抜けやっと仕事を始めることが出来たのですが
始めはとにかくつらかった

当時の演奏が30分を4ステージでした
なんせまだ、音がちょこっとしかなってないので
めちゃくちゃリキんで演奏してましたから
初日両方の指に水ぶくれが出来て
2日目のはじめにつぶれて、
3日目には両手血まみれで演奏してました
そのまま、3ヶ月は治っては血まみれの状態が続きました

今書くと大げさな気がしますが、ホントなんだなこれが
いやぁ〜つらかったですね
ただ、必死でした
仕事と言える仕事がそれだけしかなかったですから
でもおかげで何とか弾けるようになりました
今思うとありがたい話です

しかしまだ、左手のポジション取りが正確に出来なくて
音程がずいぶんと不確定でした
悩みを友達のギタリストに相談してみたら
コントラバスの先生を紹介してくれました

そしてプレイはもちろん楽器の事や音楽に対する姿勢を教わることになる師匠に出会います
そこで僕はホントの意味でコントラバスと知り合うことになります

結局ちゃんとレッスンを受けれたのは半年くらいでしょうか
始めは全くわからなかった弾くときの姿勢もポジションの感覚も
なんとかわかるようになってきました
弓のレッスンも同じく受けるのですが、このときは左手だけで
いっぱいいっぱいだったのでそこまでは全く気が回らず
弓の事をちゃんと考えられるようになるのはもっと後になってからでした

師匠には、いまも不定期でレッスンに通ってます
なんとかやっと師匠の言われてる事が理解できるようになってきました

それなりにウッドベースが形になってくると
がぜんスケジュールが埋るようになってきました

そう言えば、コーサクさんマコトくんとジャイアントロボというバンドを始めたのもこの頃です

忙しくなって来たのは良い事だったのですが
忙しいというのは、心が亡ぶと書きます
このあたりから自分の音楽性に悩む事が始まりました

そして、また自分を取り巻く環境に変化が現れます
それは「継続のすすめ、その7」に続きます

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いま表の日記とか、ミクシィの日記とかで
ちょっと過剰とも思うくらいの書き方をしてしまった
上関原発のことなんですが

ここで、ちょっとだけ頭をひやして
なぜ今回こんなに過敏に反応してしまったのかを書いてみます

結論から言うと
原発ももちろん怖いのですが
僕はこの国が怖いんだと思います
国の持つ巨大な力が怖いと言い換えても良いです

子どもの頃から、ニュースでこの国のいろんな姿を見てきました
印象に残っているのは
成田国際空港の工事のときの地元の人達の戦いです
このときは、子供心に「工事をするのは必要な事、それを邪魔する悪い人達」という
思い込みをなされていたような気がします


4年前くらいに、故郷の島に新しく橋が架かることになりました
突然、島の住民に決定された事が伝えられました
橋を造るか、造らないかは住民には決定権はありませんでした

実際に工事が始まってみると
僕のおばあちゃんの家の真上を橋が架かるようになってました
説明会で知らされたのは期限付きの退去通知でした

僕には納得がいきませんでした

僕は、親が共働きだったので
祖父祖母に育てられました
僕の子どものときの記憶が全て詰まっている場所でした
もうその場所はありません
これが行政の力なのでしょう
僕は思い出の場所を壊されてしまったのです

そこに選択肢はありませんでした

そのときに、もし断って居残りを続けることが出来たら
もしかしたら成田の反対行動のようになったのでしょうか

全島民2万人弱の人の生活を便利にするために
大好きだったおじいちゃんおばあちゃんの記憶の詰まった場所を跡形も無く壊されたということですよね

この経験があってから
今まで見て来たものの意味がはじめて分かったような気がしました

反対する事を表明して戦い続けている人達の事をすごいと思いました

国は怖いです
何かあればすぐに警官隊を派遣できるし
意にそぐわない人はすぐに刑務所に入れることが出来る

だからこそ、騒げるときに騒いでおかないと
騒ぐ事すら出来なくなってからでは遅いんです

増税しないと行ってた野党が、与党になったとたん増税する必要があると言ってます

戦争しないと言ってたはずが、いつの間にか開戦してたになりかねない気がします

すいません、ちょっと極端な言い方してます

でもこの国は、何もかも決まってから連絡するんです
説明会と言っても、決まった事を聞かされるだけの連絡会です

報道もしないで工事を強制開始するように
報道もしないで突然徴兵制度がまた再開される
それも説明会と称して期日のみが連絡される

そうなった時、僕たち弱者はどうしたら良いですか
あなたの家族を兵隊として国に差し出しますか

そうなりたくないから
僕は、子犬のようにきゃんきゃん吠えます
一人だけだと何にも無い力ですが
沢山の人が事実を知って大きな力となる事を信じて吠え続けます


いま裏日記に書いてる継続のすすめですが

まさに継続することがどれだけ重要だったかを経験したので、番外編として書いてみます

僕は10年くらい前までホテルのラウンジで演奏してました

そこでは、ピアノとベースとボーカルというトリオでやってました
ボーカルの人は5、6人くらいでスケジュールをまわしてたでしょうか

あの頃、なんせ表現力に乏しかった僕は、いわゆる歌ものはものすごく好きだったのですが、はっきり言って苦手でした
あんまり巧くいかない事が多かったです

誰も親切にそんなふうに言ってはくれませんでしたが、へたくそと言っても良かったと思います(T_T)

もし言われたとしても思いっきり勘違いしていた僕は聞く耳もってなかったでしょうが…

まぁ、書いてて悲しくなるので当時の僕がどれだけ馬鹿だったかはおいといて

昨日、その頃のメンバーだったボーカルの方とものすごく久しぶりにライブでした

結果として、ものすごく楽しいライブでした

何故、あの頃こんな風に演奏できなかったんだろうと本気で思いました

終わった後、みんなですこし話ができて
結論として、みんないい年が重ねられたねと盛り上がりました

10年の時をへだてて、その間継続することができたからこその楽しいライブだったのかな

 さてさて、アーバンコネクションでの黄金期も大学を卒業するといろいろややこしくなってきます

大学卒業と同時に、僕は一般職につきます
某大手自動車会社の下請けでイスを作ってました

ただし、バンドは続けてました
応援してくれてる人もいましたが
嫌みをたくさん言われたような気もします

ただ、上司から「お前はいつまでバンドを続けるんか?」と言われるのがいちばん嫌でした
いつも「わしは一生続けるんじゃい」と心で叫んでました

結局6年働きました
やめるきっかけは、たくさんありました
いつかまた、番外編とでも名前をつけて書いてみようと思います

じゃあ、そこからすぐに職業音楽家になったかというと
そうではありません

良く通っていたスタジオで働くことになりました
もちろんバンドは続けています

始めは営業の仕事のはずでしたが
人手が足らなくてものすごいいっぱい音響の現場に出ることになりました

今思えば、これがすごく自分のためになりましたが
当時の僕は必死でした

なにせ、20代後半で職人さんの世界に入る訳ですから
20歳の先輩とかもいる訳ですよ

まあ、怒られました(ここでもかって感じです)
始めの1年は、現場でず〜っと走ってました(笑)

名前呼ばれたら
まず「はいっ!」って大声で返事して、
「すいません!」と大きな声で謝ってから
走っていって「なんですか」って感じでした

でも楽しかった

毎回、ステージを作ったり、本番やったりっていうのが
ものすごい楽しかった
そのうち、自分でもオペレートをするようになったり
ツアーに行くようになるともっと楽しくなった

でも、そのうちに不安になる訳です
「このままだと、一生ステージに戻れんかもしれん」
それで決意することになります
どうせなら、しんどくてもステージに立ちたい

これが、30過ぎてからの話ですから
今考えたら無茶苦茶ですよね

でも、とにかく演奏したかった


やはり、働きだしてからは
学生時代ほど練習の時間が取れなかったので
どんどん弾けなくなってる感じはありました

このままだと思い通りに演奏できなくなるって恐怖で
いても立ってもいられなかった

それで、職業音楽家になる訳ですが
もちろんすぐに仕事なんてあるわけない
当然、要求されたレベルの演奏もすぐにできるわけない

ものすごい苦労が待ってました
この続きは「継続のすすめ、その6」へ

 さて、アーバンコネクションのオーディションを受けることになった僕です
大学2年生のときだったので19歳だったはず

行ってみたら、オーディションとは名ばかりで面接みたいな感じでした
そこで「まあ気が向いたらライブ見に来んさい」といわれ
そのメンバーのライブを何度か見に行きました

まあ、あり得んかったです

そのアーバンコネクションというバンドは
最先端のフュージョンバンドでした
ブレッカー、クルセイダーズ、サンボーン、マイルス
渡辺香津美や松岡直也などなど
バリバリ演奏してました

僕の前のベースの人は高校生でした
大学受験のためにバンドを抜けるという話で
次のベースを探していた訳です

しかしこの人が、ほんとにあり得んくらいに巧かった
高校生でマーカスばりばりでした
センスも良かったし、タイム間も良かった
なにより華がありました

で、その後に僕です
はじめはあり得んくらいに弾けませんでした
アドリブいうもんが全くわからんかったしね

まあ、練習のたびに泣いて帰りました
ライブのたびにお客さんも減っていってました
それだけ、僕の前のベースの人の存在感がすごかった

まあ、どうしてあの状態で使い続けてもらえたのか
今となってはわからんのですが
その頃のリーダーの口癖が「次のライブにはベースをクビにする」でした(泣)

そこからは、もう必死でした
ドラムの人と一緒に、練習のための練習をスタジオでやってました
ギターの人も声をかけてくれて
別のユニットでもジャズの勉強をしていました
ピアノの人とも別のバンドを組んだりしてました
一生の間で一番練習した頃かもしれません
夢でうなされるほど練習しました

この頃の練習は、とにかく繰り返し曲を弾く事でした
それ以外の練習方法とかは知らなかった
文字通り明けても暮れても曲を繰り返し弾いてました

ただし、要領が悪いのでなかなか覚えれなかった
この頃譜面の読み方を少しずつ覚えてた僕は
譜面に記録してそれを盗み見るという姑息な事をしてたりしました(悲)
よけいに覚えられるわけないですね
しょうがないのでとにかく練習しました

とりあえず、そうやってなんとなく努力していたのがリーダーの目に止まっていたのか
クビにはならずに続けられてました
(後から聞いたら、半年は我慢して使うつもりだったと言われました)

1年くらい続けてからでしょうか
やっと少しずつほめられるようになっていきます

思えば前半15年の中で一番楽しい頃だったのかもしれません
このバンドで、ものすごい沢山の経験をさせてもらいました

チチヤスオールナイトジャズフェスティバル
白竜湖グレートジャズフェスティバル
ミュージック国体 in 福井
青少年文化センターコンサート
アステールプラザ大ホールコンサート
今は無い、見真講堂コンサート
その他、数えきれないくらいのライブ

結局、このバンドには19歳から35歳まで
16年間在籍したことになります

この間に、ものすごい沢山の人達と共演し
今の自分に続く道が作られていきます
僕にとってただ楽しいだけだった音楽活動の
厳しさを教えてくれたのも、それ以上の楽しさを教えてくれたのも
ここでした

音楽関係の仕事に就く事を決意させてくれたのもここでした

アマチュアの最高峰にいたといっても過言ではない気がします

ここから、なぜ職業音楽家を目指したのかを
「継続のすすめ、その5」に書いていこうと思います

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